秘密の花園

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zoom RSS 今日の礼拝にて

<<   作成日時 : 2010/02/01 19:06   >>

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実は、日本からこの地に戻って、なぜか教会に行くのがつらくなっていた。

簡単にいえば、聖書を読まない、祈りもしない、神さまかは離れた生活をしているから。

このまま離れてしまおうかという気もした。先週は時差ぼけもあって礼拝を休んだけど、今週は・・・。夕べ、行きたくない、休んでしまおうと半分決めていた。

それでも朝、なんとなく目が覚め、起きようかというときに電話。新聞の勧誘の電話にちよっとイライラしつつ(だって、Do you speak English? って聞くの)。ま、話せないけど・・・なんかくやしくって・・・寝起きで機嫌わるいだけですって英語でいいかせないし(笑)。でもまあ、理由はともあれ起きたし、礼拝に行く気持ちも整いつつでかけました。

行けたことに、主に感謝です。
今日は、特別ゲストスピーカーで飢餓対策機構から、神田英輔牧師がみえてのメッセージ。エチオピアの飢饉の話とキリスト教の教えに基づく信仰での復興。そして更に、私たちにできること、といったメッセージで、とてもいい礼拝でした。信仰ある方のこういう話は、普通のセミナー(飢饉を考えようとといったセミナーなど)とはまた一味ちがってぐぐっとはいってきました。

エチオピアは、もともとシバの女王が、ソロモン王を訪問したという話が聖書にのってる。
ここで私がエチオピアを語ることはうまくできないけど、1974年に社会主義国となり教会の排除など徹底しておこなわれ、大迫害があったと。その後の大飢饉。宣教師はすでに入れない状況の中、大飢饉の発覚で、飢饉対策スタッフとして宣教師もなんとか入れたそうです。そこでのクリスチャンの行い・・・雨が降らないならあそこから水をひこう、とか、信仰がなくあきらめてる人に水を、苗をわけあたえ、育てる・・・そんなことで、立ち直りつつ、また信仰も育ち、広がったと。

私にはやっぱりうまくいえないけれど、「行動によって目に見える形でキリストを表す」ということだと


私たちは、神さまからうけたたくさんの栄光を、持っている。神さまの栄光をおしまずわけあおうという力強いメッセージでした

一日三食食べられることがあたりまえと思ったら大間違いです。何をするにもどんなことも、神の栄光のために行いなさいと神田牧師は言ってました。

「だから、あなたがたは食べるにせよ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 10:31 新共同訳)


でもね・・・・・・

私がうけてる神さまの栄光ってなんだろう・・・

もちろん衣食住に感謝。礼拝できることに感謝。でもでも、どうしたらいいのか、そこから先が見えないのです。

衣食住に感謝、友達がいて、体もそこそこ動かせて、いろいろ恵まれてる。感謝はいくらしても足りないということはわかるのだけどね。

なぜに・・・どこかで満足できないのだろうなあ・・・と自分を振り返ります。

体(食料など)の飢餓のいっぽう、「心の飢餓」があると聞いた。私のもやもやはそんな大それたものではないけれど、心は、もしかしたらどこかで飢餓状態なのかもしれない・・・そんなことを言ったら、やっぱり飢饉で困ってる人や先日書いたハイチ地震のことを考えると、いたたまれなくなってしまう。だけど、どこか、私はなにかが足りないと・・・


話がそれてしまった・・・。

今日のメッセージは、上に書いたことに戻るけど、その、受けた栄光を、神さまからの栄光を、おしまずに、わけあたえましょうということでした。神さまの祝福は、自分だけのものにせず、わけあたえましょう、という、言葉でした。

「・・・わたしたちにすべてのものを与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」(新約聖書 テモテへの手紙 一 6:17 途中から)

最後にこのひとことも加えられました。楽しませてくださる・・・と。私たちは与えられたものを楽しんでいいのです。そのために神さまは与えてくださった。

そうだねそうだね・・・。楽しくなかったら、どうして、人にわけることができようか・・・

そんなことを考えつつ。すごく心に残るメッセージでした。




自分に与えられているもの(栄光)って何?

いっぱい数えても心が満たされないのはなぜ?

神の祝福って何?




私ははずかしいけれど、まだまだこんなところでとどまっています

時間をかけ、ゆっくり今日のメッセージや、また、いろいろなことを消化できたらいいと、祈ります

私は正直、キリスト教布教とか伝道とかまったく考えていないのです。ひどいねえ(苦笑)。けれど、もし、イエスさまを信じている人(それが私ならうれしいけど・・・ちょっと置いておくわw)がすてきだったら、その人の行動、生き方から自然に他の人は共感すると思うのです。

こうして私がいまここに礼拝メッセージを書いてみるのも、半分以上、自分の想いを留めたいだけ。

それでも、もしも私が聞いてこうして感動したり考えさせられることがある出来事なら、誰かにも伝えたいなあっていう気持ちは、あります。それは、好きな音楽を紹介したり、感動した本を紹介するのとほぼ似た感覚レベルです。

あは・・・また・・・なにいいたいのか、わからなくなったwww

いつもそうだね。

せめて生活しながら味わっていきたい、与えられてるものの尊さを、満たされないものが何なのかを、そして、私が受けた祝福があるならば、わけることはできるのかなあ・・・・・・・って。

考えるのではなく、生活のなかで感じていけたらいいと、いまは、未熟ながら、祈ります。

まとまらなくてはずかしい

もっと今日聞いたすてきな話、自分のフイルターを通さずに書きたかったのに、ね。

まだまだだなあと・・・。

そんなことを感じつつも、礼拝にいけてよかったと感じた日でした。
こんなきっかけで、先日ちょっと書いたもやもやした気持ちになにかの光があたえられたと感じる。
素直に感謝です


追記
ここから直接、今日の礼拝メッセージが聞けます。これなら私の変な(?)感情もはいらず伝わりますね。

http://www.peninsulafmc.org/jp/audio/20100131.mp3

音声です。最初からこれだけ貼っておきゃいいのにって笑わないでね^^;



追記 その2
神田先生のお名前でググってみたら、こんな記事発見。
やっぱり感動されて、行動したいって感じた方が多いのですね。

http://www.tokyo.ywca.or.jp/college/yy/Ynews/200711-200801.shtml

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
 おはようございます。
そうですよね。教会にはいろいろなことに重荷を感じて行動して見える方々がいらして、自分が、そうできないことに罪悪感を感じてしまうことも多々有ります。
でも、ま、それはそれ。
神様は、そんな人、こんな人
それも、これも、アリアリ(有り)よ、と言ってくださっているのではないかと・・・。
放蕩息子の話を思い出しました。
さんざん自分のすき放題して、食べる物がなくなったから、飢え死にしそうだから、父のところにはパンがあるからという利己的な理由で帰っていっても、父は条件無しの愛で迎えてくれる。それが神様の愛なんだと。
なんにも無い自分だけど、受け入れてもらえる・・・。
なんだか、ほっとします。
私は、そんな思いで、自分をいたわり大事にしながら、頭痛がおきないように・・(笑い)、日々をすごしていますが、
忘れな草さんの
素直な文に思わず一筆コメントさせていただきました。
またね〜〜!
よこあら
2010/02/02 10:17
よこあらさん、おはようございます。
お返事遅くなってごめんね。
うん・・・最初は奉仕も、うれしくてうれしくて。私にもちょっとは、やれることがあるって。でも、やがて実はさぼりたい自分の気持ちに気がつくとすごい罪悪感www
うん・・・神さまはそれぞれ、存在のそのままの私たちを、まあ、いいよ^^;っておっしゃってくださると。

放蕩息子は、おとうさんは毎日息子が帰ってくると信じて、でむかえていたんですよね。そこがまたすごいなあと。遠くから帰ってきた、ドロドロの息子を愛して。そんな愛、いいなあって。神さまの愛ですね・・・
でも私も、まだまだ未熟でこんなことにも無力感じてるけど、そんな愛・・・できる存在になりたい。なれなくても、なりたいとう気持ちは持っていたいなあと。
って・・・きゃあそんな愛どころか、いまだ「放蕩」してる自分でしたいまはまだ、愛を受けたいんだなあと気付かされますね・・・

素直な文、ですか〜〜〜。いえいえ、ただ感動して書いてみただけです。それでも、よこあらさんにそうおっしゃっていただき、コメもいただいて、すごくうれしく感じています。ありがとう・・・
忘れな草
2010/02/04 15:54

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